1)奇妙な症状
乗り物酔いは、車や船、飛行機などでゆらぎがくり返されると、吐き気や嘔吐など不快症状のおこる現象です。病気ではなく、前庭器のもともとの欠陥をカバーする、生理的な仕組みです。奇妙なことに、移動空間(船、車内、エレベータ、エスカレータ)にいるときは症状が出ず、静止した空間(大地や屋内)に戻ると揺らぎ、頭痛、吐き気のおこる病気があります。以前より、下船病(Mal de debarquement)と呼ばれてきました。健康な人々も、しばらく乗船したあとに下船すると、大地がゆれる感じを覚えます。これは生理的な現象で通常、数分から数時間、長くても数日で、この感覚は消失します。
下船病の典型例では、船や飛行機、電車、遊園地の乗り物など、乗り物体験がきっかけで常にゆれる感覚が生まれ、数週から数ヶ月、時に年余にわたってつづく難病です。感覚だけにとどまらず、しばしば肉眼的にも、上体を規則的に左右や前後にゆっくりと(約0.2Hz)ゆすります。読書やパソコンが苦痛、人混みでぶつかり、調理や作業も困難となります。眼を閉じると歩けなくなります。電車、エレベータやエスカレータから降りると、一時的に揺らぎが悪化し、乗車中や乗船中の方が楽に感じます。しばしば、頭痛、昼眠気があり、光をまぶしく感じ、温度や気圧の変化に過敏になります。意識的に揺らぎを抑えることは可能ですが、すぐに吐き気が誘発され、長く抑えることは不可能です。
これらの症状から、通学や通勤、パソコンや調理、作業が困難となり、QOLがいちじるしく低下し、しばしば休学や休職、退職を余儀なくされます。きわめて稀な病気ですが、原因は不明で、有効な治療法もありません。重症になると数ヶ月から数年、中には10年以上も訴えのつづくことがあります。検査で何よりも特徴的なことは、通常のめまいでは記録されないような、いちじるしく大きな重心動揺記録です。しばしば、前後や左右の規則的なゆっくりしたゆらぎが記録され、経過中に軽快、増悪を繰り返す例が多いようです。過去11年8ヶ月に受診した下船病、下船病疑い例45名を示します。
2)疑い例を含めた45名の内訳
性 | 発症 | 齢 | 職業 | 発症契機 | 罹病 | 予後 | その他 | |
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1 | 女 | 42 | 42 | 主婦 | マンション揺れ | 1年 | 軽快 | |
2 | 女 | 57 | 57 | 清掃業務 | 高速エレベータ | 6ヶ月 | 軽快 | |
3 | 女 | 24 | 25 | 販売業 | 大震災 | 8ヶ月 | 軽快 | |
4 | 女 | 30 | 30 | 事務職 | 電車利用増加 | 3ヶ月 | 軽快 | |
5 | 女 | 48 | 50 | 主婦 | 不明 | 2年 | 観察中 | 20代で転倒、前歯折る |
6 | 男 | 42 | 45 | 事務職 | 6時間ヨット | 3年 | 不明 | ボクシングで憎悪 |
7 | 男 | 14 | 29 | 金融業 | 不明 | 15年 | 軽快 | |
8 | 男 | 47 | 48 | 電気工事 | 不明 | 1.5年 | 不明 | 小学時、鉄棒落下 |
9 | 女 | 31 | 31 | 案内係 | 高速エレベータ | 3ヶ月 | 軽快 | |
10 | 男 | 34 | 34 | 製造業 | 9時間乗船 | 10日 | 治癒 | |
11 | 女 | 31 | 31 | 銀行員 | 5日間乗船 | 11日 | 軽快 | |
12 | 女 | 20 | 20 | 学生 | 25時間船往復 | 1週 | 軽快 | |
13 | 女 | 31 | 31 | 無職 | 30分乗船 | 20年 | BP | 11歳後頭部から落下 |
14 | 女 | 31 | 32 | 販売業 | 飛行機 | 1年 | 不明 | |
15 | 女 | 11 | 39 | 清掃業 | 電車 | 2週 | 観察中 | 小6後頭部打撲 |
16 | 男 | 26 | 26 | SE | 25時間乗船 | 9日 | 不明 | |
17 | 女 | 48 | 48 | 事務職 | 遊園地乗り物 | 5ヶ月 | 観察中 | 28歳階段落下強打 |
18 | 女 | 38 | 41 | 主婦 | 8時間乗船 | 2.5年 | 観察中 | 21年前車横転 |
19 | 女 | 26 | 26 | 大学助手 | 不明 | 1ヶ月 | 不明 | |
20 | 女 | 23 | 23 | 水族館 | シャチ水中演技 | 4ヶ月 | 治癒 | 中止で軽快・退職 |
21 | 女 | 45 | 45 | 事務職 | 不明 | 3ヶ月 | 観察中 | 18歳高所から落下 |
22 | 女 | 40 | 40 | 事務職 | 高速エレベータ | 2ヶ月 | 観察中 | 過去に7回追突事故 |
23 | 男 | 41 | 41 | 事務・現場 | 新幹線通勤 | 10日 | 不明 | 休職 |
24 | 女 | 41 | 43 | 事務職 | 不明 | 2年 | 軽快 | 22歳自損事故 |
25 | 女 | 32 | 36 | 保育士 | 飛行機・出産 | 4年 | 軽快 | 陣痛48時間・退職 |
26 | 女 | 24 | 24 | 販売業 | 遊園地乗り物 | 1ヶ月 | BP | 学童時落下、最近転倒 |
27 | 女 | 13 | 28 | 歯科助手 | 小学生より | 15年 | 観察中 | 小学時頸部打撲 |
28 | 女 | 58 | 70 | 無職 | 不明 | 12年 | 観察中 | 発症前対向車衝突 |
29 | 女 | 16 | 17 | 学生 | 不明 | 1年 | 精査中 | 小学時頸部打撲 |
30 | 女 | 33 | 34 | 事務職 | 大震災 | 11ヶ月 | 軽快 | 発症直前、顔面強打 |
31 | 女 | 56 | 62 | 主婦 | 電車 | 6年 | 観察中 | 悪性リンパ腫 |
32 | 女 | 61 | 63 | 無職 | 3ヶ月クルーズ | 2年 | 観察中 | アーノルドキアリ |
33 | 男 | 32 | 34 | 現場作業 | 電車 | 2年 | 軽快 | 中学スキー転倒打撲 |
34 | 男 | 58 | 58 | 無職 | 飛行機 | 4ヶ月 | 不変 | 52歳交通事故頸部打撲 |
35 | 女 | 21 | 28 | 事務職 | 頻回搭乗 | 7年 | 軽快 | |
36 | 女 | 31 | 33 | 保険営業 | 30分乗船 | 2年 | 軽快BP | 30歳階段転落 |
37 | 女 | 24 | 24 | 無職 | 45日航海 | 7年 | BP | 複数の頸部打撲・転倒 |
38 | 女 | 33 | 53 | 無職 | 飛行機 | 20年 | 不明 | 6歳時落下 |
39 | 女 | 44 | 51 | リハ助手 | 不明 | 7年 | 観察中 | 43歳転倒、高度不眠 |
40 | 女 | 43 | 43 | 事務職 | 大震災 | 3ヶ月 | 自殺 | |
41 | 女 | 23 | 23 | 保険営業 | 遅い帰宅2ヶ月 | 1年 | ||
42 | 女 | 45 | 55 | 専業主婦 | 傾いた家に居住 | 10年 | ||
43 | 男 | 26 | 26 | 工場作業 | 回転性めまい | 3ヶ月 | 軽快 | 学生時剣道部 |
44 | 女 | 23 | 23 | 保育士 | めまいで転倒 | 45日 | 観察中 | 3歳時、2階から落下 |
45 | 女 | 50 | 51 | 専業主婦 | ジェットコースター | 9ヶ月 | 観察中 | 17年前硬膜外麻酔 |
3)症例
本例(上表、症例20)はシャチ水中ショー開始7ヶ月から常にゆらぐようになり、2008年に受診しました。休職し1ヶ月で軽快し、3ヶ月後のショー再開で再発します。ショー継続は困難と判断し、退職してからは再発していません。通常、下船病は、船や飛行機、電車、遊園地の乗り物で発症しますので、本例は珍しいケースです。誘発環境の忌避で改善し、再度この環境に曝されて再発したので、水中ショーが下船病の誘因であったことは明らかです。軽症例は、誘発環境をさけることで、症状の進行が予防されます。
本例(上表、症例37)は2006年2月から45日間の実習航悔中に発症し、仲間が船酔いで苦しむ中、酔いを経験していません。発症3ヶ月後に受診し、初め前後、左右のゆれは、次第に左右のゆれとなり、頑固につづきました。複数の頸部打撲、転倒歴があります。発症5年半後に、某脳外科で脳脊髄液減少症を疑われ、ブラッド・パッチ治療を受け、1ヶ月後に正常に改善しました。しかし、1年後に再発し、2013年再度、同治療を受けて改善せず、2017年12月3回目の治療を受けました。2018年4月時点で改善はありません。本例より、下船病の一部にきわめて難治な例のあること、下船病と脳脊髄減少症の境界が不明瞭なことがわかります。
本例(上表、症例33)は日頃、車通勤で電車を利用しませんが、2009年9月会社研修で3日間、片道1時間の電車通勤をしました。3日目にゆらぎが発現し、作業やパソコン不可となり、3ヶ月で改善します。しかし、不眠とうつを発症し、以来休職していました。2011年10月再発し、2011年12月豊橋から自家用車を運転し(運転は支障ない)、受診しました。下船病に特徴的な、酩酊歩行と規則的な大きなゆれが記録されました。電車利用を避けることで軽快し、4ヶ月後の受診で完治しました。2018年2月の電話連絡で再発していません。本例のように、きわめて大きなゆらぎでも、発症誘因の忌避で、改善する例も少なくありません。
本例(上表、症例36)は乗船がきっかけでゆれが発症し、経過中にいちじるしく大きなゆれが記録され、典型的な下船病症状をしめしています。既往歴で、3年前に階段から落下し、尻を強打しています。脳脊髄液減少症が強く疑われ、紹介先の脳外科でブラッド・パッチが施行されました。その後、症状は軽快し、最近の電話連絡でも再発していません。典型的な下船病でも、ゆらぎの程度は経過中に、体調で変動することがしばしばあります。
本例(上表、症例43)は2017年10月回転性めまいと耳症状を発症し、常にゆらいで欠勤を反復し、11月より休職、2017年12月に受診しました。両耳の低音障害をみとめ、裸眼でも酩酊歩行で、頭部をゆすり、下船病に特徴的な、重心動揺記録で前後の大きなゆれが記録されました。上図で青の記述は浮遊耳石症の症状、赤の記述は下船病に特徴的な症状です。3ヶ月後の2018年2月の電話連絡で、ゆらぎは軽快し、耳症状は残るものの、職場復帰していました。遠方のため、その後受診していません。本例は落下転倒歴のない若い男性で、乗り物体験で発症してもいません。特浮遊耳石由来の回転性めまいで発症し、その後、下船病に移行したような経過ですが、本当の病因は不明です。
本例(上表、症例44)は2017年11月めまいで転倒後、起立や歩行が苦痛となり、保育士を休職。ドクター・ショッピング後、2017年12月に受診しました。開眼でも上体を前屈しやっと立つ状態で、閉眼は不可、上体をゆすり、重心動揺記録は増大し、下船病の多くの症状をしめしました。落下歴があるため脳脊髄液減少症を疑い、脳外科に紹介しましたが、可能性は低いとの返信でした。2018年4月現在ゆるやかに軽快しつつあります。
4)45名の集計結果
上図は一番最近の例を含めた45名の集計で、女性が全体の78%、発症年齢20~40歳代が78%をしめます。比較的若い世代の女性の病気といえます。下図は発症のきっかけの集計で、特別なきっかけなしが最多の11名(24%)、船9名(20%)、電車5名(11.1%)、飛行機4名(8.9%)、遊園地乗り物3名、高速エレベータ3名(各6.7%)、大震災2名(4.4%)とつづきます。45名中24名(53.3%)が乗り物がきっかけで発症していますが、不詳のものも少なくありません。
上図は45名のゆらぎ以外の症状の頻度で、多様な症状が見られています。下車、エスカレータ・エレベータ後にゆらぎ増大60%、新聞、読書、パソコンが苦痛や不可48.9%、昼眠気、昼寝習慣40%、人混みでぶつかる24.4%、羞明22.2%、頭痛22.2%、次いで酩酊歩行、車内着席困難、乗車中が楽、気温・気圧変化に過敏、脳疲労など。これら症状のうち、昼眠気、羞明、気温・気圧変化に過敏、脳疲労などの訴えは、下船病に限らず、長期間つづくめまい例(クプラ耳石症など)でも見られ、脳の過労状態の結果を思わせます。
5)下船病の病因、対策、症状の解釈
当施設の過去12年間の受診者10,670名中、下船病は疑い例を含め、わずかに45名、0.42%でした。症例や発症のきっかけ、症状の内容や程度、予後は多様で、一つの疾患というよりも、症候群の可能性を示唆しています。落下、転倒、打撲の既往が45名中20名、44.4%に見られますが、通常集団の調査結果がないため、因果関係は不明です。45名中24名、53.3%が乗り物体験で発症しており、移動空間に異常に適応し、静止空間に戻っても再適応しにくい状態、と理解できます。乗り物体験が重なると増悪しやすく、乗り物の忌避で改善する例が多いことからも、この可能性が支持されます。
今回の集計例の中に、脳脊髄減少症の治療(ブラッド・パッチ)で明らかに改善した例があり、髄液代謝が関わる可能性も小さくありません。頑固に持続する例は検査を受けることを勧めています。パソコン、読書、作業、調理、狭い着席が困難や不快は、体を静止させるのが困難なための症状です。静止位をつづけると、酔い症状が誘発されます。移動空間に適応しているため、多くの症例で、乗車中はむしろ楽なことが体験されています。昼眠気、頭痛、羞明、感覚過敏(視覚、嗅覚、聴覚、温度・気圧変化)は、他の頑固なめまい疾患でも訴えられるので、脳疲労の結果と考えられます。
上図の左は下船病患者(上から症例38、33、39)の重心動揺記録です。右はめまいが消失した受診者に、重心をゆっくりと左右(上)、前後(中)、円状(下)に移動してもらい、開眼と閉眼で60秒間記録したものです。両者は区別できないほど、互いにそっくりです。この試みから、重心動揺記録のいちじるしく大きなゆらぎは、通常のめまい患者のゆらぎと異なり、患者さま自身が意図的にゆらしているといえます。その証拠に、短時間であれば、ゆらぎを止めることができます。意図的にゆらすのは、脳内にゆらぎ感覚があり、これに合わせて体ゆらすと楽なためです。下船病でも、軽症であれば肉眼的なゆれは見られませんが、程度が重くなると、肉眼的に前後や左右にゆするのが観察されます。しかし、この現象も下船病にかぎったものではなく、長期につづくめまい例で時々観察されます。