移動空間に曝されておこるめまい

乗り物酔いは、車や船、飛行機などでゆらぎがくり返されると、吐き気や嘔吐など不快症状のおこる現象です。病気ではなく、前庭器のもともとの欠陥をカバーする、生理的な仕組みです。奇妙なことに、移動空間にいるときは症状が出ず、静止した空間(大地や屋内など)に戻ると揺らぎ、頭痛、吐き気のおこる病気があります。以前より、下船病(Mal de debarquement、陸酔いともいう)と呼ばれてきました。健康な人々も、しばらく乗船したあと下船すると、大地がゆれる感じを覚えることがあります。これは生理的な現象で通常、数分から数時間でこの感覚は消失します。

下船病では、船や飛行機、電車、遊園地の乗り物など、乗り物体験がきっかけとなって常にゆれる感覚が生まれ、数週から数ヶ月、時に年余にわたってつづく難病です。感覚にとどまらず、しばしば肉眼的にも、上体を規則的に左右や前後にゆっくりと(0.2 Hz)ゆすります。読書やパソコンが苦痛、人混みでぶつかり、調理や作業も困難となります。眼を閉じると歩けなくなります。電車、エレベータやエスカレータから降りると、一時的に揺らぎが悪化し、乗車中や乗船中の方が楽に感じます。しばしば、頭痛、昼眠気や羞明をともない、温度や気圧の変化を不快に感じます。意識的に揺らぎを抑えることは可能ですが、すぐに吐き気が誘発され、長く抑えることは不可能です。

下船病症例の一覧(2006.5-2015.9)
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これらの症状から、通学や通勤、パソコンや調理、作業が困難となり、日常生活のQOLが著しく低下し、しばしば休学や休職、退職を余儀なくされます。きわめて稀な病気ですが原因は不明で、有効な治療法もありません。重症になると数ヶ月から数年、中には10年以上も訴えのつづくことがあります。検査で何よりも特徴的なことは、めまいの患者さまでは見られないような、重心動揺記録のいちじるしい増大です。しばしば前後、左右の規則的なゆっくりしたゆらぎが記録され、経過中に軽快、増悪を繰り返す例が多いようです。過去10年間に、当施設に受診した40名の下船病の患者さまの一覧を示します(上表)。

これらを集計してみました。女性32名、男性8名で、女性が男性の4倍にのぼり、年齢は17~70歳で平均38.4歳、発症年齢は13~61歳で平均35.2歳でした。発症年齢は20~40代が全体の77.5 %にのぼり、女性患者の78 %を占めました。発症のきっかけは、船10名、飛行機5名、電車5名、高速エレベータ3名、大震災3名、遊園地の乗り物2名、シャチの水中ショー1名、マンションのゆれ1名で、残り10名は発症のきっかけははっきりしません。症状は全例が受診時、常にゆらぐと訴え、肉眼的ゆれを9名22.5 %に認めました。

症状は@常にゆらぐ100 %、Aパソコン・読書が苦痛・不可50 %、B昼間眠気・昼寝習慣45 %、C電車・バスの下車後、エレベータ・エスカレータ後にゆらぎの悪化40 %、D頭痛37.5 %、E人混み歩行でぶつかる・苦痛37.5 %、F光がまぶしい35 %、G電車・バスに長く乗れない25 %、H調理・作業が苦痛・不可22.5 %、I気温・気圧変動に敏感20 %、J狭い着席が苦痛15.8 %、K脳疲労15 %、L酩酊歩行、直進歩行が困難など。

予後は、電話による確認を含め、調査時点で40名中、軽快14名、観察中10名、不明7名、脳脊髄液減少症疑いでブラッドパッチ(自家血を髄液の漏れる硬膜外腔に注射する)施行4名、治癒2名、不変1名、精査中1名、自殺1名でした。ブラッドパッチ施行4名中、奏功2名、他の2名は無効でした。揺らぎの大小と予後は相関していません。典型的な例を以下に紹介します。

症例37の重心動揺記録
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症例37.この患者さまは2006年24歳の時、海洋学部の学生で45日間の実習航海に参加し、1週後の寄港で地面のゆれ、昼間眠気を覚えました。寄港ごとに症状が悪化し、まっすぐに歩けず、吐き気を覚え、3週後の停泊中、船内歩行で壁に衝突し、身体のゆれを指摘されました。船が外洋で大きくゆれると不快症状は軽快し、43日目に帰港でゆれが減ると、吐き気、頭痛が出現し、起立が不可となります。下船後もゆらぎがつづき、同年6月に紹介受診しました。

読書、パソコンで吐き気が生じ、授業で症状が悪化し、やむをえず退学します。2008年友人との九州旅行で悪化し、以来、軽作業もできず、自宅静養がつづいています。過去に頸部打撲や転倒歴が複数回あり、某脳神経外科で脳脊髄液減少症を疑われ、2011年9月ブラッドパッチの治療を受けます。腰痛のため2ヶ月間安静にしていたところ、ゆらぎは劇的に消失しました。しかし、2013年初めに再発し、ブラッドパッチを再度施行されましたが、2015年現在も弱いゆらぎがつづいています。

症例38の重心動揺記録
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症例38.この例は受診時53歳女性、無職でした。10代よりゆらぎ、飛行機搭乗で悪化し、乗り物に酔いやすく、運動は苦手でした。30代よりゆらぎが悪化して事務職を退職し、2010年3月に受診しました。常に遊園地のコーヒーカップに乗っているような感覚があり、エスカレータ、エレベータが苦痛で、下車後ゆらぎが悪化し、長い乗車はできませんでした。読書、デスクワーク、調理はできず、昼寝の習慣、偏頭痛があり、温度の変化や低気圧で体調不良となっていました。6歳の時リフトから落下した既往があり、脳脊髄液減少症を疑い、脳神経外科に紹介しましたが、その後、受診しなくなり経過は不明です。

稀な病気にもかかわらず、ここで詳しく取り上げたのには理由があります。現在の都市空間では、エレベータ(特に高速エレベータ)、エスカレータ、動く歩道、新幹線、飛行機などを利用する機会がふえ、高層ビルやマンションも増加しています。これらの建物は免震構造のため、階によって大きく揺らぎます。これらの乗り物にたびたび乗り、高層ビルのゆれに曝されると、ある確率で下船病を発症する人々が出てくる可能性があります。患者さまの体験から、乗り物やエレベータから降り立って、揺らぎ感覚や不快症状が長くつづく人々は、その乗り物を避けることが賢明です。軽症であれば、誘発された乗り物を避けることで治癒しますが、重症になると改善しにくく、長年にわたり症状がつづく可能性があります。

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